今日、午後五時半頃、レトと散歩に出ようとしていると、
さっと車庫に飛び込んで来て、綺麗にUターンして行った一羽の鳥がいた。
今年初めて見る燕だ。
総入れ歯、いや失礼、そう言えば、
二、三日前に、堤の南の藪で、鳥の鳴き声がえらいしていたが、
どうも、あれは燕の鳴き声だったに違いない。
燕の群れの飛来を見たことがない。
早朝に来るのだろうか。いつか、死ぬまでに見たいものだ。
以上、具体的な一羽の鳥から、時空を隔てた音像を連想したお話し。
こんな芸当をしているのは、右脳にちがいない。左脳では出来ない。
堤の桜が徐々に開花している。
今年の堤の桜は、例年以上に、美しいような気がする。
花の色に、つやを感ずる。
そして、枝に咲いた花の並びが美しい。
桜の花を観賞する時、枝に注目して見ると、
花がより美しく見える。
桜の木の枝は、真下から見ると、何層かの層の重なりになっている。
横からも意識して見ると、層になっているのに気付く。
堤の桜だと、二段から三段だ。
この層を認識して桜の花を見ると、花の美しさが際立つ。
一種の3D効果だろうか。
以上、空間を層状に認識した映像のお話し。
この芸当も、右脳の技だ。
最後に、家事労働の一大イベントの一つ、皿洗いに付いて。
家事労働という言葉は、苦行と置き換えてもよいほど、イメージが悪い。
その中でも、皿洗いはワーストの方だろう。
私もいつの歳からか、皿洗いをするようになった。
皿洗いをするようになって、一番先に気付いたのが、
病気であっても、皿洗いは毎日必ずせないかんということ。
吾がおふくろも含め、世の女性は大変だったんだなと、痛感した次第。
しかも、今は蛇口をひねれば、いとも簡単に温度調節ができるお湯が出る。
こんなものがない時代、冬は皿洗い大変だったろうと、これも痛感。
この苦行を楽しくなる工夫を、口に出さないだろうが、みんな色々しているだろう。
例えば、いい香りの洗剤を使うとか。
さて、私だが、皿洗いはどちらかと言えば、大好き。
ゴチャゴチャの食器が片付い行くのを見るのは、実に頭がスッキリする。
私の皿洗いの流儀はこうだ。
流儀は、プロフェッショナルの専売特許ではない。
主夫(「しゅふ」で変換すると「主夫」が出てきたので驚愕!)見習いにもあるんだぞ。
高度の専門性が要求される分野だけじゃなく、歴史に一筆も多分書き残されない、
何処でも、毎日繰り返されている、日常のささいな営みにも、流儀はあるんだ。
前置きが長くなった。私の皿洗いの流儀は、
①就寝一時間前に、取り掛かる。これで、心を就寝モードに変換する。
②大きいお皿から、小さいお皿、どんぶり、お茶碗と進み、
お箸、スプーン、杓子類へ移る。
そして、コップ、湯飲み、最後に鍋、フライパンで終わる。
③お箸がターニングポイントで、これで目どが一つ付く。
それは何故かと言うと、お箸までは食器類が山になっていて、
皿洗いの対象が、立体即ち三次元の状態になっている。
しかし、お箸に移る段階で、ほぼ平面即ち二次元になっている。
④そうそう、忘れていた。
最後の最後は、お米を研いで、炊飯器をスイッチON.。
これで、本当に終了。後は寝るだけ。
私の皿洗いの流儀をまとめると、次の二点だ。
①皿洗いを日常生活の、変換点に自分で勝手に位置づけること。
②皿洗いは左脳ではなく、右脳ですること。つまり、こういう風だ。
皿を一枚いちまい洗うのではなく、立体を削って平面にし、
更に削って点にすると言う訳だ
最後に一言。
皿洗いをしていると、犬と散歩しているのと同じような、無の状態になる。
土佐犬ジョンとの七年半、ほぼ毎日二時間から二時間半の散歩をした。
している時は、こんなことしていていいのかなと、不安に思っていた。
しかし、今にして思う。この無の状態の蓄積は、心の宝物です。
無というのは、何にも無いということを意味していない。
無と言う何かがある状態を、無と人は言うのだと思う。
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2010年03月21日
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