あじさい園の小川で、カエルの卵を見つけた。

この卵の塊の大きさはほぼ20cmだ。

子供の頃、小学六年生頃まではよく見かけた光景だ。
もっとも、その頃の方がここはひらけていた。
きちんとした畑があったし、父母、祖父母に連れられてよく来たものだ。
最近ではしばしば、つい思ってしまう。
この光景も、見たとしてあと三十回足らずかと。
「毎年見る」と何気なく使っていた言葉に、賞味期限があったことをしみじみと感ずる。
そう考えると、実にいとおしい。
しかし、この光景は何百年続いて来たのだろう。
そして、僻地の村でもここは更に僻地だから、これから先も何百年も続くに違いない。
そう願う。そう願って止まない。
此処のカエルは、何百年も此処のカエルのDNAを引き継いで生き残って来、これからもそうだ。
我々村民も、私の祖父母まではこの村内、1.6km四方内での婚姻がほとんどだ。
その意味では、己もこのカエルも同じだ。
成人してここのお玉じゃくしを見た時の感動は、其処にある。
食物連鎖の下位に属する生物は、想像以上に摂食されるようだ。
この卵たちも、成人して卵を産めるのはわずかに違いない。
此処はへびも多いし。
スズメバチの人生も考えてしまう。女王蜂一匹を生むためにあんなに沢山の卵を産み、育てるのか。
女王蜂の人生も悲愴である。何のための人生なのかと、蜂の人生を知れば知るほど、考え込んでしまう。蜂のような生態系もつ生物種が存在するということが、どういう意味を持つのだろう。
六十歳という年齢は、今までの何十歳の大台とは全く違う。
かなり悲壮感がある。今までこんなことを六十過ぎた人から聞いたことがない。
六十から後は、決死の年齢だ。必ず死が訪れる年代だ。
この年齢にたどり着いて、幸いに思うことは二つある。
一つは妻が居り、子供が居り、孫が居る事。
もう一つは、未だ破壊されていない、昔ながらの、そう一千年以上は続いている地域に生きていると言うこと。此処で生まれ育ち、多分此処で生を終えることは、最高に幸せだと思う。
カエルにしろ、スズメバチにしろ、ヒトである我々にしろ、一体何をめざして生き続けているのだろう。
何か共通点があるのに違いない。



